2009年5月4日月曜日

素足の伯爵夫人 "Barefoot Contessa"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/barefoot-contessa.html

昨夜はジョセフ・マンキーウィッツによって監督された1954年の作品「素足の伯爵夫人」を見た。エヴァ・ガードナーとハンフリー・ボガードが主演している。

物語は葬式が行われたばかりの、ローマの小さな墓地から始まる。雨が降る中、伯爵夫人の葬儀に参列している人々の中にはアメリカ映画のベテラン監督であり、脚本家であるハリー・ドウス(ボガード)がおり、大理石でできた伯爵夫人の彫像が彼女の墓の上に立っている。物語はフラッシュバックで語られ、まずハリーが伯爵夫人(マリア・ダマタ、あるいはマリア・バーガス)に出会った時のことを回想する。

スペイン。テキサス出身の大金持ちであるカーク・エドワーズ(ウォーレン・スティーブンス)は何本かの映画に出資することを決め、プレス・エージェントのオスカー・マルドゥーン(エドモンド・オブライアン)とドウスを雇う。ドウスはこの時点では、人生に失敗した酔っ払いだが、一番最近書いた脚本に基づいて、もう一本くらいは映画が撮れるかも知れないという状態にある。彼らは映画のススクリーンを飾る「ニューフェース」を求めてヨーロッパにやってきたのだが、ローマで、スペインの小さなクラブで踊っているマリア・バーガスについての噂を聞き、彼女に会ってスクリーンテストをするためにスペインまで飛んできたのだ。

しかし、マリア(エヴァ・ガードナー)本人は、映画に関わることにそれほど興味を抱かない。彼女はオスカーを軽蔑し、テキサス出身の金持ちには嫌悪感を抱く。彼は酒も、タバコもやらず、完全な、偽善的ともいえるセルフコントロールを保っているが、それは彼が先天的に病的だからではないだろうかとマリアは感じる。だが、彼女はハリーのことは気に入り、彼が過去に監督した映画は素晴らしいと思う。そしてもし彼が自分を女優にする手助けをしてくれるなら、映画に関わってもいいと思うようになる。

長いシーンがあり、その中でハリーは彼女の家を突きとめる。それは彼女の家族が住む貧民街にある、小さな、汚いアパートだ。ハリーとマリアはお互いに身の上話をし、自分達の経歴を告白する。マリアは市民戦争のさなか、まだ幼かった自分が素足で土を掘り、そのことでどれだけ安らぎを得たかを語る。以来、彼女は靴を履くのが嫌いで、土を素足で感じるのが好きだと語る。

ハリーは彼女を説得し、スクリーンテストは大成功に終わる。ハリーのフラッシュバックが終わり、再び葬式のシーンに戻り、次にオスカーが回想を始める。

誰もがマリアにはスターになるすべての素質がそなわっていることを認め、最初の映画はスマッシュヒットとなる。いろいろな噂やゴシップが飛びかうが、誰もマリアが、映画のプロデューサーや共演者とデートしている現場を目撃することはない。彼女はお決まりのナイトクラブに現れたり、業界仲間とビジネスについて情報交換したりもしない。デビュー作となる映画のプレミアには、デートの相手も伴わず、監督のハリー・ドウスと彼の妻と一緒に現れる。

アメリカではスマッシュヒットとなった映画だが、それが他国で公開される直前に、マリアの父親が、マリアの母親殺しの容疑で逮捕される……。

葬式の場面に戻り、ハリーが別のフラッシュバックで回想を始める。マリアは母親を嫌っており、父親を弁護するためにできるだけのことをする。ハリウッドのルールをすべて破ってだ……。マリアは父親の無罪を勝ち取り、前例がないほどの大スターとなる。彼女はテキサス出身の金持ちが製作するもう2作の映画に出演し、ハリーが監督と脚本家を務める。

しかしそこで、彼女はこのテキサス出身のプロデューサーと仲たがいをし、アルゼンチン人のプレイボーイと、彼のヨットに乗って、地中海へセーリングの旅に出てしまう。

ハリーの二番目のフラッシュバックが終わり、オスカーが二番目のフラッシュバックで回想を始める。アルゼンチン人のプレイボーイはオスカーを雇い、オスカーも地中海クルーズに参加する。テキサス出身の金持ちプロデューサーと肉体関係を持たなかったマリアだが、このアルゼンチン人とも関係をもたない。オスカーはそれについて知らないのだが、彼女は普通の男たちとしか寝ないのだ。彼女は自分が魅力を感じる、彼女の歓心を買おうとしない、「土」を連想させるような男としか寝ないのだ(このことは、これ以前に現れたハリーのフラッシュバックでも指摘される。ハリーはマリアのことを理解しているので、彼のフラッシュバックでは彼女に対する理解が示される。だがオスカーは彼女を理解したことがなかったので、彼のフラッシュバックでは、彼の当惑と、彼の知っている限りのこと、彼が理解している限りのことしか語られない)。

フランス、リビエラの賭博場でアルゼンチン人がギャンブルする間、マリアはその「国際的な環境」に退屈する。時には大勝ちするアルゼンチン人だが、ある日、大負けし、それをマリアのせいにする。彼女と寝ることができないアルゼンチン人は怒りを爆発させ、彼女を社交界の名士たちの前でののしる。そこへ男が現れ(ロサノ・ブラッジ)、アルゼンチン人をひっぱたき、マリアを連れ去る。そしてオスカーがマリアを見たのはそれが最後となる。

また葬式の場面に戻り、今度は、彼女と結婚した伯爵(ブラッジ)が彼女についてのフラッシュバックを披露する。伯爵の回想は、彼が不眠と絶望から気が狂いそうになり、車を運転してイタリアを去り、フランスにやってくるところから始まる。車が路上でオーバーヒートし、伯爵は水をもらおうとジプシーのキャンプへ歩いてゆく。そのキャンプで、ジプシーの一人と踊っている女を見て伯爵は魅了される。彼女は美しく、ジプシーではない――これがマリアで、伯爵と彼女との出会いだった。二人はほんの2、3秒見つめあうが、伯爵は桶に一杯の水をもらい、自分の車に戻ってゆく。伯爵はまた彼女に会うことに確信を持ちながら車で走り去る。

そして彼の予感どおり、カジノでもう一度マリアと会うことになる。マリアは、アルゼンチン人がギャンブルで買ったチップを集め、そのチップを現金化し、窓から現金の束をなげて、一緒に踊っていたジプシーたち与えるが、伯爵はそれを見ている。そしてアルゼンチン人が、彼女がチップを取ったせいで運が逃げたと、ののしっているを目撃する。伯爵はアルゼンチン人をひっぱたき、マリアを連れ出し、自分の車に乗せる。そして二人は伯爵が先祖から受け継いだ家に向かって行く。

マリアにとって、伯爵は完璧な紳士、シンデレラ物語に現れる白馬に乗った王子様(映画の中に現れるフラッシュバックの何箇所かで、ハリーとマリアがおとぎ話について言及する会話が現れる)。伯爵は彼女と肉体関係を持とうとはせず、彼女の手にキスをするだけで、愛情のこもったまなざしを彼女に向ける。彼女も彼を愛し始める。しかし伯爵と彼の姉の間の会話に、これが単なるおとぎ話では終わらないだろうという警告を観客は感じ取る。二人は彼らの一家の血が絶えることを話し始めるのだが、彼女には子ができず、伯爵も――1942年10月25日以来、子供ができない体になってしまったのだ。伯爵の姉は、マリアが伯爵を心から愛していることを知っており、このまま彼女と結婚するのは残酷だと考える。それが単に、一家にとって最後の伯爵と伯爵夫人の肖像を彼らの家に飾るためだけになるとすればだ……。しかし伯爵の決心は変わらない。

ハリーが最後のフラッシュバックを披露する。彼は新しい映画のためにイタリアでロケーションスカウトをしている。もちろん、それまでにマリアは彼にたくさんの手紙を書いており、彼女がめぐり合った新しい愛について彼に伝えていた。彼女はハリーに会いに来て、ハリーを伯爵に紹介する。しかしハリーは何か不吉な感じを二人に抱く。はっきり何とは言えないが、何かがおかしいとハリーは感じる。

それからしばらくはマリアに会わないハリーだが、13週間後の真夜中、マリアが彼に会いに来る。次の日の撮影シーンのために、脚本の書き直しに必死になっていたハリーだが、マリアは驚くような告白し、ハリーは居心地の悪い思いをする。マリアは、彼女の夫が手にキスする以上に、彼女と肉体的に親密になろうとしないというのだ。このフラッシュバックの中で、もう一つのフラッシュバックが現れ、マリアがハリーに新婚初夜の様子を語る。伯爵がマリアのところにやってきて、軍医による診断書を渡し、自分が爆発によって死にかけ、何とか命は助かったが、男としての機能は失ったと説明する。

それ以来、欲望に負け、頑健だが粗野な男――彼らの使用人の一人――と関係を持ち続けていることをマリアは告白する。だが浮気は目的を達したので、その関係を絶つことをマリアは告げる。彼女は妊娠しており、夫に子供と跡継ぎを与えることができるというのだ。

彼女の車が去るのを見つめるハリーだが、別の車がその後を追っているのに気づく。心配になったハリーは自分の車に乗り、その後をつける……伯爵の屋敷までだ。そしてそこでハリーは彼女の彫像がついに出来上がったのを見るが、2発の銃声が響く。

伯爵夫人の死体を抱えた伯爵が、庭師のための小家屋から出てくる。彼は庭師と伯爵夫人を撃ち殺したのだ。マリアは伯爵に妊娠していると告げるチャンスはなく、ハリーもそれを伯爵に告げる勇気はない。

再び葬式の場面。雨はやんでいる。太陽が顔を出し、素足の伯爵夫人の彫像を照らし出す。参列者たちが墓地から去り始める。伯爵は手錠をはめられ、警察に連行される。伯爵夫人に最後の別れを告げ、ハリーが歩き去る。

この作品はテクニカラーで撮られ、イタリアで撮影されているが、なぜか白黒映画として僕は記憶していた。そして、もしかしたら白黒映画のほうが良かったかもしれない。ガードナーの髪や目の色、頬骨、えくぼはキッカー、リア・クロス・キーとオビー・ライトで照らされた白黒なら素晴らしく見えたかもしれない。プリントの色は少し色あせ、むらがあった。自然を撮影することで定評のあるジャック・カーディフが撮影担当だが、この作品はほとんどセットで撮られている。しかしプリントの色むらについては、作品の所有者・管理者が責められるべきかもしれない。この映画は、それらの要素を保護、保存できるようなメジャーなスタジオによって製作され、所有されている作品ではないからだ。

僕が一番面白いと思ったのはセックスと性欲に対する態度だ。マリアは肉体的に非常に美しく、また健康な性欲を持つ女だ。彼女の人生に関わる男はたくさんいるが、誰一人として彼女と肉体関係を持たない。実生活では、シナリオどおりにはことが運ばないことが脚本では強調されている。もしかしたらマンキーウィッツは、わざと型どおりになることをさけたのかもしれない。もちろん、映画の広告キャンペーンでは、マリアに関わる多数の男たちのことが協調され、彼女が彼らと結ぶ肉体関係をほのめかしている。そしてセクシーなラブシーンが一つでも挿入されていれば、実際、映画はもっと売れていたかもしれない。だが映画の中でマリアは男にキスの一つもしたろうか?僕が言っているのは、情熱的なキスのことだ。映画を見た後で思い返しても、そんなシーンは一つもなかったように思う。憶えているのは頬っぺたへのキスや、ハグだけだ。

映画に出てくる男たちは2つ、あるいは3つのカテゴリーに分けられる。最も重要でないのはマリアが――彼女によれば抑えきれず(不思議なことだが、今日なら、この部分こそ、物語の中で最も健康的で「正常」な愛とセックスの表現だと呼ばれるかもしれない) ――肉体関係を持つ名もない男たちだ。これらの男たちには名前がない上に、一言の台詞も与えられていない。だから彼らのためにカテゴリーを設ける価値はないように思われる。

残りの2つのカテゴリーは、金を持った大物で、マリアの歓心を買おうとする男たちと、彼女を理解する紳士たちだが、彼らはいろいろな意味においてゲイと変わらない男たちだ。金持ちの男たちがマリアとの関係において不首尾に終わることは、冒頭のマドリッドのナイトクラブのシーンで予示されている。マリア・バーガスにはルールがあり、それは客席に出て行って、彼らと同席することは決してしないというものだ。マリアはテキサス出身の男のために働き、アルゼンチン人とある意味で「同席」することにはなるが、どちらとも肉体関係は持たない。

紳士たちについてだが、ドウスは彼女にとっては父親のような存在だ。彼女と関係を持つには年をとりすぎており、疲れすぎている。若くて魅力的な妻(脚本によれば彼の2番目か3番目の妻)を持つことで、また、ボガードが演じることで(かろうじて)マリアのゲイ友達になることを免れている。しかしこれらの、彼のために設定された要素ゆえに、このキャラクターは(ゲイの監督の)ジョージ・キューカーのような人物になりえるし、マンキーウィッツは本当はハリー・ドウスを彼女のゲイ友達として描きたかったのではないかとさえ疑ってしまう。伯爵もゲイっぽいが――僕の父はそれこそが伯爵の秘密だと言うが、彼が性的機能を失った日付を特定しているところから判断して、僕としてはそうではないと思う――性的不能であるという設定も、それと大差はない。ただもし彼がゲイなら、心から彼女を愛していながら、それに伴う肉体がないという皮肉が完全には表現されない。

この作品で、エヴァは見せ場を十分に与えられなかったように思う。だが彼女の女優としての限界を踏まえた上で、この役は書かれたようだ。セックスシンボルの女優として、もっと適切なカメラマンが選ばれていたら、あるいはマンキーウィッツが、広告キャンペーンで約束している、そして彼女のファンが欲している猥褻さをもう少し加えていたら、彼女にはもっと見せ場があったかもしれない。だがエヴァはカメラの前で素晴らしく見えるものの、台詞を覚えることが苦手なことで有名だった。少なくとも彼女が台詞にスペイン訛りを何とか加えていることを喜ぶべきかもしれない――たとえそれが外人が英語を喋るときに使うアクセントとはまったく違っていてもだ。

この映画は人々になぜか好まれる「ハリウッドの内情暴露」映画の部類に入る映画だ。たとえば水道屋が、バーへ現れて、どうやって水漏れしている蛇口を直したかえんえんとくだをまくのを見ているようなものとも言える。