2009年5月4日月曜日

素足の伯爵夫人 "Barefoot Contessa"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/barefoot-contessa.html

昨夜はジョセフ・マンキーウィッツによって監督された1954年の作品「素足の伯爵夫人」を見た。エヴァ・ガードナーとハンフリー・ボガードが主演している。

物語は葬式が行われたばかりの、ローマの小さな墓地から始まる。雨が降る中、伯爵夫人の葬儀に参列している人々の中にはアメリカ映画のベテラン監督であり、脚本家であるハリー・ドウス(ボガード)がおり、大理石でできた伯爵夫人の彫像が彼女の墓の上に立っている。物語はフラッシュバックで語られ、まずハリーが伯爵夫人(マリア・ダマタ、あるいはマリア・バーガス)に出会った時のことを回想する。

スペイン。テキサス出身の大金持ちであるカーク・エドワーズ(ウォーレン・スティーブンス)は何本かの映画に出資することを決め、プレス・エージェントのオスカー・マルドゥーン(エドモンド・オブライアン)とドウスを雇う。ドウスはこの時点では、人生に失敗した酔っ払いだが、一番最近書いた脚本に基づいて、もう一本くらいは映画が撮れるかも知れないという状態にある。彼らは映画のススクリーンを飾る「ニューフェース」を求めてヨーロッパにやってきたのだが、ローマで、スペインの小さなクラブで踊っているマリア・バーガスについての噂を聞き、彼女に会ってスクリーンテストをするためにスペインまで飛んできたのだ。

しかし、マリア(エヴァ・ガードナー)本人は、映画に関わることにそれほど興味を抱かない。彼女はオスカーを軽蔑し、テキサス出身の金持ちには嫌悪感を抱く。彼は酒も、タバコもやらず、完全な、偽善的ともいえるセルフコントロールを保っているが、それは彼が先天的に病的だからではないだろうかとマリアは感じる。だが、彼女はハリーのことは気に入り、彼が過去に監督した映画は素晴らしいと思う。そしてもし彼が自分を女優にする手助けをしてくれるなら、映画に関わってもいいと思うようになる。

長いシーンがあり、その中でハリーは彼女の家を突きとめる。それは彼女の家族が住む貧民街にある、小さな、汚いアパートだ。ハリーとマリアはお互いに身の上話をし、自分達の経歴を告白する。マリアは市民戦争のさなか、まだ幼かった自分が素足で土を掘り、そのことでどれだけ安らぎを得たかを語る。以来、彼女は靴を履くのが嫌いで、土を素足で感じるのが好きだと語る。

ハリーは彼女を説得し、スクリーンテストは大成功に終わる。ハリーのフラッシュバックが終わり、再び葬式のシーンに戻り、次にオスカーが回想を始める。

誰もがマリアにはスターになるすべての素質がそなわっていることを認め、最初の映画はスマッシュヒットとなる。いろいろな噂やゴシップが飛びかうが、誰もマリアが、映画のプロデューサーや共演者とデートしている現場を目撃することはない。彼女はお決まりのナイトクラブに現れたり、業界仲間とビジネスについて情報交換したりもしない。デビュー作となる映画のプレミアには、デートの相手も伴わず、監督のハリー・ドウスと彼の妻と一緒に現れる。

アメリカではスマッシュヒットとなった映画だが、それが他国で公開される直前に、マリアの父親が、マリアの母親殺しの容疑で逮捕される……。

葬式の場面に戻り、ハリーが別のフラッシュバックで回想を始める。マリアは母親を嫌っており、父親を弁護するためにできるだけのことをする。ハリウッドのルールをすべて破ってだ……。マリアは父親の無罪を勝ち取り、前例がないほどの大スターとなる。彼女はテキサス出身の金持ちが製作するもう2作の映画に出演し、ハリーが監督と脚本家を務める。

しかしそこで、彼女はこのテキサス出身のプロデューサーと仲たがいをし、アルゼンチン人のプレイボーイと、彼のヨットに乗って、地中海へセーリングの旅に出てしまう。

ハリーの二番目のフラッシュバックが終わり、オスカーが二番目のフラッシュバックで回想を始める。アルゼンチン人のプレイボーイはオスカーを雇い、オスカーも地中海クルーズに参加する。テキサス出身の金持ちプロデューサーと肉体関係を持たなかったマリアだが、このアルゼンチン人とも関係をもたない。オスカーはそれについて知らないのだが、彼女は普通の男たちとしか寝ないのだ。彼女は自分が魅力を感じる、彼女の歓心を買おうとしない、「土」を連想させるような男としか寝ないのだ(このことは、これ以前に現れたハリーのフラッシュバックでも指摘される。ハリーはマリアのことを理解しているので、彼のフラッシュバックでは彼女に対する理解が示される。だがオスカーは彼女を理解したことがなかったので、彼のフラッシュバックでは、彼の当惑と、彼の知っている限りのこと、彼が理解している限りのことしか語られない)。

フランス、リビエラの賭博場でアルゼンチン人がギャンブルする間、マリアはその「国際的な環境」に退屈する。時には大勝ちするアルゼンチン人だが、ある日、大負けし、それをマリアのせいにする。彼女と寝ることができないアルゼンチン人は怒りを爆発させ、彼女を社交界の名士たちの前でののしる。そこへ男が現れ(ロサノ・ブラッジ)、アルゼンチン人をひっぱたき、マリアを連れ去る。そしてオスカーがマリアを見たのはそれが最後となる。

また葬式の場面に戻り、今度は、彼女と結婚した伯爵(ブラッジ)が彼女についてのフラッシュバックを披露する。伯爵の回想は、彼が不眠と絶望から気が狂いそうになり、車を運転してイタリアを去り、フランスにやってくるところから始まる。車が路上でオーバーヒートし、伯爵は水をもらおうとジプシーのキャンプへ歩いてゆく。そのキャンプで、ジプシーの一人と踊っている女を見て伯爵は魅了される。彼女は美しく、ジプシーではない――これがマリアで、伯爵と彼女との出会いだった。二人はほんの2、3秒見つめあうが、伯爵は桶に一杯の水をもらい、自分の車に戻ってゆく。伯爵はまた彼女に会うことに確信を持ちながら車で走り去る。

そして彼の予感どおり、カジノでもう一度マリアと会うことになる。マリアは、アルゼンチン人がギャンブルで買ったチップを集め、そのチップを現金化し、窓から現金の束をなげて、一緒に踊っていたジプシーたち与えるが、伯爵はそれを見ている。そしてアルゼンチン人が、彼女がチップを取ったせいで運が逃げたと、ののしっているを目撃する。伯爵はアルゼンチン人をひっぱたき、マリアを連れ出し、自分の車に乗せる。そして二人は伯爵が先祖から受け継いだ家に向かって行く。

マリアにとって、伯爵は完璧な紳士、シンデレラ物語に現れる白馬に乗った王子様(映画の中に現れるフラッシュバックの何箇所かで、ハリーとマリアがおとぎ話について言及する会話が現れる)。伯爵は彼女と肉体関係を持とうとはせず、彼女の手にキスをするだけで、愛情のこもったまなざしを彼女に向ける。彼女も彼を愛し始める。しかし伯爵と彼の姉の間の会話に、これが単なるおとぎ話では終わらないだろうという警告を観客は感じ取る。二人は彼らの一家の血が絶えることを話し始めるのだが、彼女には子ができず、伯爵も――1942年10月25日以来、子供ができない体になってしまったのだ。伯爵の姉は、マリアが伯爵を心から愛していることを知っており、このまま彼女と結婚するのは残酷だと考える。それが単に、一家にとって最後の伯爵と伯爵夫人の肖像を彼らの家に飾るためだけになるとすればだ……。しかし伯爵の決心は変わらない。

ハリーが最後のフラッシュバックを披露する。彼は新しい映画のためにイタリアでロケーションスカウトをしている。もちろん、それまでにマリアは彼にたくさんの手紙を書いており、彼女がめぐり合った新しい愛について彼に伝えていた。彼女はハリーに会いに来て、ハリーを伯爵に紹介する。しかしハリーは何か不吉な感じを二人に抱く。はっきり何とは言えないが、何かがおかしいとハリーは感じる。

それからしばらくはマリアに会わないハリーだが、13週間後の真夜中、マリアが彼に会いに来る。次の日の撮影シーンのために、脚本の書き直しに必死になっていたハリーだが、マリアは驚くような告白し、ハリーは居心地の悪い思いをする。マリアは、彼女の夫が手にキスする以上に、彼女と肉体的に親密になろうとしないというのだ。このフラッシュバックの中で、もう一つのフラッシュバックが現れ、マリアがハリーに新婚初夜の様子を語る。伯爵がマリアのところにやってきて、軍医による診断書を渡し、自分が爆発によって死にかけ、何とか命は助かったが、男としての機能は失ったと説明する。

それ以来、欲望に負け、頑健だが粗野な男――彼らの使用人の一人――と関係を持ち続けていることをマリアは告白する。だが浮気は目的を達したので、その関係を絶つことをマリアは告げる。彼女は妊娠しており、夫に子供と跡継ぎを与えることができるというのだ。

彼女の車が去るのを見つめるハリーだが、別の車がその後を追っているのに気づく。心配になったハリーは自分の車に乗り、その後をつける……伯爵の屋敷までだ。そしてそこでハリーは彼女の彫像がついに出来上がったのを見るが、2発の銃声が響く。

伯爵夫人の死体を抱えた伯爵が、庭師のための小家屋から出てくる。彼は庭師と伯爵夫人を撃ち殺したのだ。マリアは伯爵に妊娠していると告げるチャンスはなく、ハリーもそれを伯爵に告げる勇気はない。

再び葬式の場面。雨はやんでいる。太陽が顔を出し、素足の伯爵夫人の彫像を照らし出す。参列者たちが墓地から去り始める。伯爵は手錠をはめられ、警察に連行される。伯爵夫人に最後の別れを告げ、ハリーが歩き去る。

この作品はテクニカラーで撮られ、イタリアで撮影されているが、なぜか白黒映画として僕は記憶していた。そして、もしかしたら白黒映画のほうが良かったかもしれない。ガードナーの髪や目の色、頬骨、えくぼはキッカー、リア・クロス・キーとオビー・ライトで照らされた白黒なら素晴らしく見えたかもしれない。プリントの色は少し色あせ、むらがあった。自然を撮影することで定評のあるジャック・カーディフが撮影担当だが、この作品はほとんどセットで撮られている。しかしプリントの色むらについては、作品の所有者・管理者が責められるべきかもしれない。この映画は、それらの要素を保護、保存できるようなメジャーなスタジオによって製作され、所有されている作品ではないからだ。

僕が一番面白いと思ったのはセックスと性欲に対する態度だ。マリアは肉体的に非常に美しく、また健康な性欲を持つ女だ。彼女の人生に関わる男はたくさんいるが、誰一人として彼女と肉体関係を持たない。実生活では、シナリオどおりにはことが運ばないことが脚本では強調されている。もしかしたらマンキーウィッツは、わざと型どおりになることをさけたのかもしれない。もちろん、映画の広告キャンペーンでは、マリアに関わる多数の男たちのことが協調され、彼女が彼らと結ぶ肉体関係をほのめかしている。そしてセクシーなラブシーンが一つでも挿入されていれば、実際、映画はもっと売れていたかもしれない。だが映画の中でマリアは男にキスの一つもしたろうか?僕が言っているのは、情熱的なキスのことだ。映画を見た後で思い返しても、そんなシーンは一つもなかったように思う。憶えているのは頬っぺたへのキスや、ハグだけだ。

映画に出てくる男たちは2つ、あるいは3つのカテゴリーに分けられる。最も重要でないのはマリアが――彼女によれば抑えきれず(不思議なことだが、今日なら、この部分こそ、物語の中で最も健康的で「正常」な愛とセックスの表現だと呼ばれるかもしれない) ――肉体関係を持つ名もない男たちだ。これらの男たちには名前がない上に、一言の台詞も与えられていない。だから彼らのためにカテゴリーを設ける価値はないように思われる。

残りの2つのカテゴリーは、金を持った大物で、マリアの歓心を買おうとする男たちと、彼女を理解する紳士たちだが、彼らはいろいろな意味においてゲイと変わらない男たちだ。金持ちの男たちがマリアとの関係において不首尾に終わることは、冒頭のマドリッドのナイトクラブのシーンで予示されている。マリア・バーガスにはルールがあり、それは客席に出て行って、彼らと同席することは決してしないというものだ。マリアはテキサス出身の男のために働き、アルゼンチン人とある意味で「同席」することにはなるが、どちらとも肉体関係は持たない。

紳士たちについてだが、ドウスは彼女にとっては父親のような存在だ。彼女と関係を持つには年をとりすぎており、疲れすぎている。若くて魅力的な妻(脚本によれば彼の2番目か3番目の妻)を持つことで、また、ボガードが演じることで(かろうじて)マリアのゲイ友達になることを免れている。しかしこれらの、彼のために設定された要素ゆえに、このキャラクターは(ゲイの監督の)ジョージ・キューカーのような人物になりえるし、マンキーウィッツは本当はハリー・ドウスを彼女のゲイ友達として描きたかったのではないかとさえ疑ってしまう。伯爵もゲイっぽいが――僕の父はそれこそが伯爵の秘密だと言うが、彼が性的機能を失った日付を特定しているところから判断して、僕としてはそうではないと思う――性的不能であるという設定も、それと大差はない。ただもし彼がゲイなら、心から彼女を愛していながら、それに伴う肉体がないという皮肉が完全には表現されない。

この作品で、エヴァは見せ場を十分に与えられなかったように思う。だが彼女の女優としての限界を踏まえた上で、この役は書かれたようだ。セックスシンボルの女優として、もっと適切なカメラマンが選ばれていたら、あるいはマンキーウィッツが、広告キャンペーンで約束している、そして彼女のファンが欲している猥褻さをもう少し加えていたら、彼女にはもっと見せ場があったかもしれない。だがエヴァはカメラの前で素晴らしく見えるものの、台詞を覚えることが苦手なことで有名だった。少なくとも彼女が台詞にスペイン訛りを何とか加えていることを喜ぶべきかもしれない――たとえそれが外人が英語を喋るときに使うアクセントとはまったく違っていてもだ。

この映画は人々になぜか好まれる「ハリウッドの内情暴露」映画の部類に入る映画だ。たとえば水道屋が、バーへ現れて、どうやって水漏れしている蛇口を直したかえんえんとくだをまくのを見ているようなものとも言える。

2009年4月23日木曜日

火山のもとで "Under the Volcano"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/under-volcano.html

今夜は「火山のもとで」を見た。マルコム・ローリーの傑作小説の映画化で、ジョン・ヒューストンが1984年に監督した作品だ。

主人公はアルコール中毒の元英国領事(アルバート・フィニー)で、物語は1938年の「死者の日」を中心に展開される。彼は四六時中、驚くべき量の酒を飲んで過ごしている。彼の妻(実際は元妻)のイボンヌ(ジャクリーン・ビゼット)が戻ってきて、もう一度、彼とやり直そうとするが、領事は、彼女が自分の腹違いの弟(アンソニー・アンドリュース)と浮気をしたことを許すことも忘れることもできない。そして悪意のシンボルである片田舎にそびえる火山のもとで彼の人生は終わる。

ずっと前、この映画ができる前だと思うが、作家ローリー、彼の人生、そしてこの小説の創作についてのドキュメンタリーを見たことがある。小説からの抜粋とメキシコの映像がたっぷり散りばめられたドキュメンタリーだった。僕は衝撃を受け、以来いつもこの小説を読みたいと思っていたが、実際に読むことはなかった。なぜなら酔っ払いの惨めな様子が何百ページにもわたって語られていると思うと、読む前に気が滅入ってしまったからだ。映画が公開された時は、このドキュメンタリー映画ほどは良くないだろうと思い見なかったが、いつもこの映画には興味があったし、今日ついに見ることができた。

奇妙な偶然だが、カメラを担当したのはガブリエル・フィゲロアで、この映画より25年も前に製作された「ザ・ヤング・ワン」を担当した(少なくとも同じ名前の)カメラマンだ。だが、この映画の色調は明るすぎ、十分、様式化されていないように思えた(もう一つ、くだらない難癖をつけるとすれば、フィニー、アンドリュース、そしてほとんどの俳優たちの髪の長さは、30年代というより80年代風だった)。

最初は、巨匠ヒューストンらしさが出ていない作品だと思ったが、ファシスト達が、特に理由がないのに領事に嫌がらせをし、場末の汚い酒場と倉庫の外で、雨と泥に塗れた領事を犬のように撃ち殺すクライマックスの場面はすさまじく、またパワフルだった。

フィニーはいい演技をしているが、ビセットには驚いた。彼女がこれほど多面的で、深い感情表現をしているのを見たことはない。彼女が60年代の終わりに「ブリット」、フランクシナトラの探偵映画、サーファー映画などに出演してハリウッドデビューしたことは憶えていたが、彼女はまだ単なるモデルだった。でもそれから二十年後、彼女は観客を納得させるだけの演技力と体験を身につけていた。

ヒューストンと脚本家たちは忠実に原作を映画化したのではなく、ある程度脚色したのではないだろうか。映画には、近づきつつある戦争についてのテーマが色濃く打ち出されているが、ドキュメンタリーでその部分が出てきた記憶はない。例えばこの映画では、冒頭に近い部分で、赤十字の公式イベントに出席した領事がドイツ大使を侮辱して騒ぎを起こす場面がある。死者を移送するのに急行列車のみを使用し、死者の親類はファーストクラスのチケットを手にそれに同行するというメキシコの習慣について領事はわめきはじめる。そして立ったままの死体や、切り刻んで袋に詰められた死者でぎゅうぎゅう詰めの列車にまで話を誇張する。もちろん、それから数年後には(第二次大戦が始まり)、実際、東ヨーロッパで収容所へ向かう死の列車が現れることになる。

ヒューストンは30年代にメキシコに住んだ。その他にもメキシコに時々滞在して、多くの映画を撮った。この作品は原作だけではなく、そうした彼の思い出に基づいて創作されたものかもしれない。もしかしたらヒューストンがメキシコを訪れたときに、ローリーと会ったことさえあるかもしれないが、真相はわからない。

もう一度、ドキュメンタリーを見たいと思う。この映画は良かった。とても良い。でもドキュメンタリーの方が、僕の記憶の中ではこの映画よりもっとパワフルだった。

2009年4月16日木曜日

隠し砦の三悪人 "The Three Bandits of The Hidden Fortress"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/three-bandits-of-hidden-fortress.html

今夜は黒澤の「隠し砦の三悪人」を見た。

もちろん君はこの映画をよく知っているはずだ。僕もこの映画を3、4回見ている。いつ見ても思うのだが、映画の本筋が始まるまでは、二人の道化役が主人公として描かれており、物語のテンポがのろい。そしてこの道化役が演じている、本筋にたどり着くまでの部分は、映画を見る回数を重ねるたびに、だんだん長く感じられるように思う。

道化役の演技を楽しむためには、彼らのジョークを面白いと感じる必要があるだろう。奇妙なことに、勇ましい侍大将と、勇敢で、気の強い姫君と対比され始めると、この道化役たちが面白く見えてくるが、二人だけのときは、この道化役たちには全く面白味がない。日本語がわからないせいで、見逃したり、聞き逃している部分があるのだろうか? もしかしたら彼らのアクセントや、彼らの使う言葉は、要点しか伝えられない字幕よりユーモラスなのかもしれない。

とにかく、姫君が登場するまで45分かかる。そして侍大将、姫君、道化役たちが一緒に旅に出るまで1時間かかる。この時点で第一幕が終わると言えるのだろうが、第一幕に1時間だ!僕には長すぎる!

物語:秋月家と山名家の間で戦いが起こる。早川家はそれに巻き込まれずにすんでいるが、負けつつある秋月側の生き残りの者たちを保護することに同意する――もし彼らが領境を越えて秋月領に来ることができればの話だ。

だが、物語は二人の道化役の男たちから始まる。この二人は一攫千金を夢見て、武具を手に入れるためにすべてを売り払い、戦争に参加する小作人たちだ。だが、計画通りにことは運ばず、戦場におくれて現れた二人は、死体から衣服や武具を剥ぐ作業をするはめになる。そのあと、ぼろをまとった二人は、故郷の早川領へとぼとぼ帰り始めるのだが、その道中、自分達の不運をお互いのせいにしてずっとののしり合う。

山名と早川の領境に来る二人だが、その領境は閉ざされ、秋月側の人間が逃げないように、山名の兵士たちが見張っている。二人は山名軍に連行され、やはり連行された他の人々に混ざって、秋月城の土台を掘り起こす作業に就かされる。秋月家の富の基盤であると噂されている2百枚の金片を探すためだ。

しかし強制的に労働させられていた人々の反乱が起こり、その混乱に乗じて二人は逃げ出し、荒れた後背地をさまよう。腹をすかせ、盗めるものは何でも盗み、倒れる寸前の二人。だがそこで彼らは、金片が隠された薪の木切れを何本か見つける。

金片をもっと探そうとする二人だが、猛々しい山賊(三船敏郎)に出くわし、山賊は残りの金片がどこにあるか知っていると言う。そして二人は秋月家の隠し砦で、山賊と一緒に旅をしている野性的で、癇癪持ちの女に会う。その砦は、かつては山名領を見張るために使われていたが、今は見捨てられてしまっている。

実はこの山賊こそ、秋月の侍大将、六郎太で、女はプライドの高い、秋月の姫君の雪だ――彼らはこの先どうしようかと思案しながら砦に隠れていたのだ。道化役の二人を殺そうと考える六郎太だが、二人にどうするつもりかと聞いたところ、早川領へたどり着くためにはまず山名領へ行くしかないと、無謀なプランを口走る。だが六郎太はなぜかこのプランを気にいり、二人を殺さず、そのプランに従うことにする。

そして(映画が始まって一時間後だ!)一行は旅に出る。一行とは、侍大将、姫君、二人の道化役、そして秋月の金片を隠した薪をたっぷり積んだ三頭の馬だ。彼らは山名領に入るが、彼らの動向に関するニュースを聞きつけた奴らがいつもあとを追ってくる。道中、彼らは馬を売り、奴隷にされていた秋月の捕虜と荷馬車を買い、山名軍の大将たちと戦う。火祭りで薪を全部燃やしてしまうが、朝になって灰の中から金を掘り起こし、早川との領境にある山へ命からがら逃げ込む。だがそれもすべて無駄に終わる。二人の道化役は姫君を裏切ることに決めるのだが、彼らはそれさえも上手くできない――姫君と六郎太は彼らが裏切る前に捕らわれてしまうのだ。すべてに完全に敗北しながらも、命だけは助かった二人は、自分の家に帰るために早川領へとぼとぼ入ってゆく。

一方、捕らわれた六郎太と姫君のところに、かつて六郎太が決闘して負かした侍大将がやってきて、二人が誰かをすぐさま見破る。かつては誠実な友情で結ばれた二人だったが、決闘でひどく打ち負かされ、傷跡が残った侍大将は、今では六郎太に対して苦々しい感情を持っている。六郎太は姫君に謝るが、姫君は生涯で一番楽しい時間を過ごさせてくれたことに感謝すると六郎太に言い、火祭りで歌われていた、人生に対する執着を捨てた境地についての歌を歌う。

朝になり、領境から山名城へと一行は出立する。しかし、もうこれまでかと思われたとき、山名の侍大将は雪の歌った歌を思い出し、自身の部下と戦い、六郎太と姫君を自由にして早川領へ送ってやる。また金を積んだ馬たちも送ってやる。そして自分も馬にとびのり、彼らを追ってゆく。

その行く手のずっと先には、あの二人の道化役がとぼとぼ歩いている。二人は再び友情を誓い合っているが、それも金を積んだ馬がやってくるまでだ。どちらがどれだけとるかで喧嘩を始め、早川軍が来て二人を逮捕するまでそれは続く。

最後のシーンで、二人の道化役は雪と六郎太に再会するが、雪は優雅な着物をまとい、六郎太は甲冑を身につけた姿に変わっている。六郎太は二人の道化役に金二片を二人の働きに対して与え、道化役たちは早川城を去る。二人はついに何か学んだらしく(少なくともそう見える)、もうもらった金貨について口げんかはしない。

制作者としては扱うのが難しい作品だ。黒澤が語っているのは二人の道化役の物語りように見えるが、勇ましい侍大将と勇敢な姫君のキャラクターが面白すぎる。そしてこの二人が現れるやいなや、物語の中心が彼らに移ってしまう。また、これはどちらかというと子供のための寓話のようにも見える。子供が見下し、笑うような対象として二人の道化役が提供されている。だが、この二人の道化役の果たしている役割にはもっと奥深い意味があると思う。

オープニングシーンは、実際に参戦する多くの人々にとって戦争がどんなものかを語っている。彼らにとって戦争とは汚く、破壊的で、不名誉なものだ。しかし侍大将と姫君が物語を乗っ取った後は、エリートにとっての戦いとはどのようなものかを垣間見ることができる。彼らにとっての戦いは、栄光と冒険に満ち、名誉なことなのだ。つまり戦争は、エリート侍の個人的なレベルにおいては、栄光に満ちたものであることが可能だ。だがそれが領主や領国を巻き込むレベルになると、百姓達が引きずり込まれるのは不可避で、そうなると戦争はもはやそれほど素晴らしいものではない。小作人が戦いから何かを得られると考えるのは全く愚かだということだ。

オープニングは、吉川の武蔵をちょっと思い出させた。武蔵の映画も、参戦するためにやってきた小作人のヒーローが死体の山の中で目覚め、自分の軍が敗北したことを知るシーンで始まる。彼もまた故郷の村の親友と一緒に戦いに来たのだが、二人はその死体に覆われた戦場から全く別の道を歩き始める。溝口の雨月物語も、一攫千金をねらって戦場にやってくる二人の小作人の話だが、隠し砦より5年前に公開されている。

だが映画の終盤で、侍大将が敵を打ち負かし、ヒーローらしく危機を脱するのを見た人々は戦争の愚かさについて考えるだろうか? 冒頭の泥にまみれた醜さは道化役の男たち自身の愚行のせいだと思い、戦争自体にその醜さの由来を問うことを忘れてしまわないだろうか? 頭では僕も戦争は悪だと言える。だが馬がギャロップする映像を見ながら、六郎太のテーマー曲である勇ましい音楽を聞くと胸が躍ってしまうのは事実だ。

2009年4月11日土曜日

デッドマン "Dead Man"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/dead-man.html

今夜はジム・ジャームッシュの「デッドマン」を見た。西部劇映画の詩的なパロディとでも言えるだろうか。旅。瞑想。そして素晴らしい台詞が幾つも挿入されている。

クリーブランドから西部行きの電車に乗るウイリアム・ブレーク(ジョニー・デップ)が主人公だ。彼はアリゾナのマシンにあるディキンソン・メタル・ワークスという会社から仕事のオファーをもらった会計士だ。列車の旅は、物語のプロローグだが、そこでは客車を共有にする人々がだんだん変化していく様子が描かれている。旅が続くにつれて、彼らはだんだん乱暴になってゆくのだ。

マシンで、ブレークは自分にオファーされた仕事がもう誰かにとられていたことを知る。一文無しのブレークだが、売春婦に拾われる。だが彼女の古いボーイフレンドが現れ、ブレークを撃つ。売春婦はブレークをかばって彼の前に立ちふさがるが、弾は彼女の体を貫通して、ブレークの胸に深くめり込む。ブレークはボーイフレンドを撃ち、彼の馬を盗んで町から逃げる。

問題はボーイフレンドがディキンソンの息子で、馬はディキンソンご自慢の馬だったことだ。ディキンソンは三人の非情な殺し屋を雇い、ブレークを探して、その死体を持って帰れと彼らに命令する。

そして雑木林の中で、高い教育を受けたインディアンの「ノーバディ」がブレークを見つけてしまう。ノーバディはブレークの胸から弾を取り出そうとするが、あまりにも深くめり込んでいて取り出させない。弾がとりだせないのだからブレークが死ぬのは目に見えている。彼に残された時間はあまりない。

ノーバディはブレークの名前を聞き、感激する。彼はイギリスに住んだことがあり、詩人のウイリアム・ブレークの作品が大好きだったのだ。ブレークが死につつあることを理解しているノーバディは、ブレークを、空を映す水のある場所へ連れて行くことにする。魂たちが住むと言われている「もう一つの世界」へブレークが戻れるようにだ。

ノーバディは大陸を横切る(彼らが馬で進む中、木々が変化してゆく様子で描写される)旅にブレークを導き、オレゴンでノーバディはその水のある場所を見つける。途中で報酬につられた多くの男たちがブレークを殺そうとするが、運と拳銃の腕によって、彼は皆を始末してしまう。ただ非情な殺し屋の中でも、最も悪辣で、他の二人を殺してしまったコール・ウイルソンだけはずっと追ってくる。

ノーバディとブレークはついにその水のある場所にたどり着くが、ブレークは疲労し、もうほとんど死ぬ寸前だ。ノーバディはカヌーを用意し、それにブレークをのせる。ブレークはカヌーの中に横たわり、水がカヌーを陸からどんどん遠ざける間、空から降る雨を眺める。彼が遠ざかる陸の上に見た最後のものは、コール・ウィルソンがバッファロー・ライフルで彼に向かって撃つという光景だ。だがノーバディがウンチェスター銃でウイルソンに狙いを定め、二人は互いに撃ち合って倒れる。そしてカヌーは潮にのって漂い去ってゆく。

音楽はニール・ヤング。ほとんどはエレキギターのソロかデュオで、ハウリングを起こしている。最初は、時代錯誤のような印象を受けてイライラしたが、最後には感情移入してしまった。エンディングのトリップ気分を高めている。

ジャームッシュはかなりの予算をこの映画で得たようだ。これもまた、白黒で撮った、奇妙な、商業的でない映画と言えるが、カメラはロビー・ミュラーが担当し、素晴らしい映像を見せている。古典的なハリウッドの撮影技術とまではいかないが、所詮、昨今のフィルムは、昔の、リッチなファイングレインのスローフィルムがやってみせたような芸当はできないのだ。ミュラーに白黒映画を撮るために必要な、充分な経験があったともいえない(毎日、仕事として白黒映画を撮り、最終的に何十年もとった古いカメラマン達と比べて、という意味でだ)。

興味深く、ほとんど奇妙な選択と呼べるような俳優陣がそろっている。ロバート・ミッチャムがディキンソンとして出演するなど、素晴らしいスター俳優の特別出演、罠猟をする猟師にロックスターのイギー・ポップ、ブレークを殺そうとするボーイフレンドにガブリエル・バーン、頑迷な説教師にアルフレッド・モリナ、口汚いが可笑しな猟師にビリー・ボブ・ホーントン……リストの名前はまだまだ続く。現れては消えていく登場人物たちだが、どの人物も見る価値があり、楽しませてくれ、そのままもっと見続けたくなるほどだ。デップはもちろんいつも素晴らしく、いつも通りいい演技をしている。彼が俳優として失敗した作品はまだ見たことがない(もちろんあの「海賊」映画の二編は見るのを避けているが……)。

これは、絶対僕の好みじゃないと思い込んでいながら、見ると予想よりずっと素晴らしいと思うタイプの映画だ。これが劇場公開されたときに見ればよかったと思う。

2009年4月6日月曜日

誰も知らない "Nobody Knows"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/nobody-knows-dare-mo-shiranai.html


今夜は是枝裕和が2004年に監督した「Nobody Knows」を見た。imdbのデーターベースのオリジナルのタイトルは「誰も知らない」だ。

パワフルだが長い作品。長すぎるとも思ったが、長いからこそ、映画を見ながら、物語について考える時間が与えられているとも言えるし、子供が体験している状況に終わりがないように感じさせる効果もある。

ちょっとガッツの足りない母親は、四人の子供をアパートに置いて、ボーイフレンドとどこかへ行ってしまう。一番年長のアキラはまだ12歳だが、他の三人の面倒をみなければならなくなる。母親は彼女とアキラしかこのアパートに住んでいないと大家に言っていたので、子供たちは学校にも行けないし、アパートから出ることもできない。だが母親が去って何ヶ月もたち、子供たちは外に出ざるをえなくなる。ガス、電気、水が止められてしまったからだ。

そしてある日、一番幼いユキが事故で死んでしまう。アキラと、近所に住む少女サキは、死体を羽田に運び、そこに埋める。生き残った子供たちの生活は続く。物語の終わりとしては、彼らの存在を警察が知り、母親の罪が問われ、子供たちは里親や、孤児のためのグループホームに引き取られ――とにかくそういう子供たちが日本で一般的に送られる所へ送られ――学校へ行き、将来への展望が開けるというものが予想されるかもしれない。だがそういう結論をこの映画は提供しない。スカッとした満足感を得られない反面、終わりとしてはよりパワフルだ。

監督はドキュメンタリースタイルで撮影しており、子供たちは好演している。子供たちが実質的に、出てくる役者のすべてだ。カメラはほとんどいつも静止している。そして場面の移行は、ほとんどすべて、ストレートカットで処理されている。唯一、表現主義的と呼べるシーンはユキがからむシーンだ。まず、誕生日にユキがアキラに頼んで、母親に会うために駅に連れて行ってもらうシーン。もちろん母親は現れないが、アキラとユキはモノレールの下でしばらく佇み、アキラはユキに、いつか飛行機を見せてやると約束する。そして映画の終盤近くでアキラが、まだ生きているユキと道を歩いている情景を夢想、あるいはそういう思い出にひたるシーン(是枝は当初、家族全員――父母と子供四人――が一種の天国、少なくとも幸せな家庭におさまっている夢想を描き、映画を終えようとしていたらしい)もその例だ。

映画ではクロースアップ、カットアウェイ、オフハンドのコンポジションが多用され、ドキュメンタリースタイルのショットやカットが多く見られる。これは、子供たちの演技に対するプレッシャーをやわらげると同時に、多くのことを語り、物語を形作るのに役立っている。大げさな感情表現をできるだけさけ、すべてが控えめなトーンで、淡々とした日常であるように描かれている。そのことが、ある意味でこの映画をとてもリアルで、忘れがたく、説得力のあるものにしている。

君はこの映画の題材になっている事件を憶えているかな?僕もニュースで読んだような気がするが、二、三年前の事件だったと記憶している。imdb.comにのせられたコメントによると、是枝はこの脚本を15年間あたためてきたとされている。だが、もしそうだとすれば、その事件は1980年代の終わりに起こったということになる。あるいは日本には似たような事件が何件もあったのだろうか?

この種の映画を、もっと広範な社会情勢を絡めることなく議論するのは難しい。なぜ母親はこんなことができたのか?なぜ子供たちは見つかることなく生きられたのか?我々の社会は一体どうなっているのか?でも、ここで僕は映画についてだけ語っていると断っておこう。

2009年4月5日日曜日

トレインスポッティング "Trainspotting"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/trainspotting.html


夕べは「トレインスポッティング」を見た。不思議なことだが、今までなぜか見る機会がなかった。スティーブが話していた「トイレ」のシーンのせいで、見る気をなくしていたのかもしれない。でも悪い映画じゃなかった。

これは、物語よりスタイルにこだわった種類の映画だ。脚本家、監督、セット・デザイナー、編集者が一緒になってそれに取り組み、派手で楽しい、不思議なカット、奇妙で主観的なセットとショット、特殊なレンズでとらえらあれた、あからさまではないが歪んだ映像、けばけばしい色などをこの映画に盛り込んだ。俳優陣も過激なキャラクター達を漫画チックな演技で描いている。

一言で言えば、この映画は僕が体験したことのない世界を垣間見せてくれたと言える。知らない世界へ連れて行ってくれるというのは、映画というメディアの魅力のひとつだ。原作は一種のアンダーグラウンド・カルト・クラッシックと言えるが、物語と言うよりは、一連の出来事や生活の断片を綴ったものだ。脚本はそれに基づいて、何とかストーリーを紡ぎ出そうとしている。でも、やはりこれはストーリというより、さびれたスコットランドの町に住む、貧乏で、不満を抱いているヘロイン・ジャンキーたちの生活のポートレイトだ。確かに脚本は、古典的なある種の「救済」を提供しようとしているが、その語り口のひねりによって救済と呼ぶには皮肉すぎるニュアンスが加えられている。

このことは「生きることを選べ!そして結婚、仕事、子供、洗濯機、車、CDプレーヤー……を選べ」という台詞を映画の冒頭に持ってきて、ジャンキーたちが盗みに入った店から逃げるシーンにかぶせていることにも当てはまる。ジャンキーたちはヘロインを買う金を得るために、店から盗んだ商品を売るのだが、ここでこの台詞はとても皮肉に聞こえる。映画は最後に、友人たちから2キロのヘロイン売買から得た利益を騙し取った主人公が陽気に歩き去るのを映し出す。そして、そこで同じ台詞が流されるのだが、ここでは主人公がこのライフスタイル(盗んだドラッグ・ディールの金に頼って生きること)を受け入れる準備があるように見え、その台詞はさらに皮肉に聞こえる。そして映画が終わったあと、我々は、このレントンという男が本当にヘロインをやめる気があるのか疑問に思ってしまう。彼が最後にヘロインを打つシーンで、彼のボイスオーバーは「最後のひと打ち、そしてまた最後のひと打ち……そう思いながら、どれが本当に最後のひと打ちになるのだろう?」と言うのだ。

映画の途中で赤ん坊が出てくる。ジャンキーたちのたまり場で、注射針や彼らの残したゴミやくずの中で楽しそうに這い回っているのが出てくるのだが、その赤ん坊は彼らの不注意から死んでしまう。ジャンキー仲間の一人はそのために刑務所に送られる。また、一人はオーバードースから、ヘロインを断ち切ることを余儀なくされ、古典的な(40年代、ビリー・ワイルダーが「失われた週末」で描いて以来)そのリアクションがモンタージュで語られる。ただ一人健康で、ドラッグに手を出したことのなかった男はガールフレンドを失い(彼と彼のガールフレンドが個人的な楽しみのために作ったセックス・テープを主人公が盗んだため)、ヘロインを打ち、エイズに感染する。そしてガールフレンドを取り戻すために手に入れた子猫が彼のもとに戻ってきたとき、彼はトキソプラズマ症で死ぬ。過激なドラッグ反対者の男(「フルモンティ」のロバート・カーライルが、黒髪の髭をはやした精神病質者として演技)は中毒者たちを次々と病院へ送り込み、主人公は「スコットランドで一番最悪なトイレ」へ逃げ込む。それがあの有名なシーンだ。それでもこの作品はジャンキーの視点から見た世界を我々に垣間見せ、彼らの体験する快感、クレージーでワイルドな楽しみのある側面を我々に伝えようとしている。信じられないことだがこれはコメディだ。とても新鮮な作品だが、検閲した人々がそれを肯定的に受けとめたとは思えない。

2009年4月3日金曜日

小間使いの日記 "Diary of a Chambermaid"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/diary-of-chambermaid.html


今日は「小間使いの日記」を見た。ブニュエルの第二フランス期の初期に撮られたもう一つの作品だ。

物語の主人公はパリの小間使いセレスティンで、彼女は田舎に働き口を見つける。だがその田舎に余興と呼べるものは何もなく、みんな偏狭で、使用人はトンマか乱暴者だ。年老いた主人は半分ボケた、靴のフェティシストで、女主人である彼の娘は几帳面な、やかまし屋だ。この女主人は、夫とのセックスに耐えられず、結果として、彼女の夫は森で狩りをするか、小間使いを誘惑することにあけくれている。それまでの小間使いを誘惑したように、彼はセレスティンを誘惑しようとするが、セレスティンは頓着しない。最初、女主人はセレスティンに反発を感じる(たぶんセレスティンが美しく、夫がセレスティンに夢中になることを恐れたため)が、だんだん彼女に気を許すようになる(たぶんセレスティンが夫と寝なかったためだ)。そして、いつしかセレスティンはみんなを意のままに操るようになる。

前半は上流階級を皮肉に揶揄する映画になっているが、使用人も聖人ではない。後半はちょっとした殺人ミステリーか、サスペンス映画の様相を帯びてくる。セレスティンと特に気が合っていた少女がレイプされ、森で虐殺されているのが発見されるのだ。それも、ちょうど年老いた主人がセレスティンのブーツを口に突っ込んだまま死んでいるのが発見された夜にだ。 使用人のジョセフがやったに違いないとセレスティンは考える。彼はサディストで、乱暴者で、ファシストだからだが、観客も犯人はジョセフに違いないと思う。なぜなら彼が森で少女と会い、彼女のあとを追う場面が出てくるし、少女の素足が茂みからつき出している――二匹のでかいカタツムリが彼女の足を這っている――ショットが現れるからだ(このイメージは映画の中で一番印象的で、「赤頭巾ちゃん」をもっと陰惨にした昔話のようなトーンで捉えられているこのシーン全体がかなり強烈)。

ジョセフの身辺を調べることにしたセレスティンは、彼の部屋に入り、殺人を告白させるため、彼を愛しているふりをし、彼と寝ることさえする。最終的に彼を罠にかけ、彼は殺人の疑いで逮捕される。しかし証拠というのが、セレスティンが殺人現場に置いた、彼の靴のつま先部分だけだったので、結局、罪は問われずに終わってしまう。

セレスティンは隣に住む退役した軍のキャプテンと結婚するが、元の主人の次の犠牲者となるべく拘束された少女を救う。そしてジョセフはカフェを開くためにシェルブールへ行き、ファシストが町を練り歩くの見て歓呼の声をあげる。

セレスティンの働く家の人間関係が何だか妙に思えたので、この映画の原作になった、1891年の小説の筋を調べてみた。小説でもセレスティンは靴のフェティシストを主人に持っているが、彼が死ぬと、別のカップルのために働くようになる。小説はノンリニアーな、もっとエピソードの羅列っぽい物語になっており、セレスティン・Rという女による実際の日記のように書かれている。ドレフィス事件が起こった当時のフランス社会が批判され、金に汚い人々、その中でも最悪な金持ちが描かれており、彼らの奴隷になっている貧民たちも道徳的に金持ちよりましとは言えない様子で描写されている。著者のオクターブ・ミルボーは社会に対して怒り狂っているようだが、ブニュエルと、彼と一緒に脚本を書いたジャン・カリエレはもっと軽いタッチで問題を扱っており、我々自身もやりかねない暴挙としてそれらを面白がり、同時に思索の対象として捉えているように見える。一家の主人と隣のキャプテンとの諍いのエピソードはかなり笑える。

この作品は白黒で撮られ、きっちりライトがあてられた、プロダクションとしても申し分のない作品になっている。素晴らしい俳優たちが出演し、1920年代のコスチューム、軽馬車、馬、アンティークの車なんかがたくさん登場する。ただひとつ気になるのは、ワイドスクリーンのアナモルフィックの「フランスコープ」で撮られたため、レンズの加減で映像がパーフェクトではないということだ。スクリーンの端にある物体は細く引き伸ばされ、ワイドアングルレンズで撮られた映像は、パンすると、ショットの真ん中が歪んでしまう。たとえば、小さな女の子の手の上のカタツムリが映されたクロースアップのショットにはかなりの違和感を覚えた――それが何なのかは正確にはわからないが、カメラがブームバックしてフレームが広がる時に、何かが起こってる。ショットの真ん中でレンズが入れ代わったのか、照明の変化か、微妙なズームが使われてレンズが調整しようとぶれたのだろうか? とにかく妙だった。

ジャンヌ・モローがセレスティンを演じおり、いい演技をしている。この映画が、「スザーナ」と同時に僕の家に届けられたのは面白い偶然だ。「スザーナ」も美しい小間使いの若い女の話だが、彼女も周りの男達のすべてから欲望の対象にされる。スザーナは彼らの欲望をかきたて、エスカレートさせようとするが、セレスティンは特にそうしたことはしない。自分の気に食わない相手を簡単に追い払い、みんなを手際よく扱う。この部分も小説に書かれていたのだろう。つまり、下層階級が、知的で、その能力があれば、召使いの立場でも、「主人達」を意のままにできるということが描かれていたのだと思う。映画に出てくる中でそれほど知的でない召使いといえば、セレスティンのあとを引き継いだ小間使いだ。主人は言い古された台詞を使って彼女を誘惑するが、彼女は何と言っていいかわからない。どう拒否していいのかわからないし、その家を去り、職を失うことも考えられない。泣きそうになりながら、数分後には納屋へ行くように命令されるが、そこでは主人にレイプされる運命が彼女を待っている。

ほとんどシュールレアリズムと呼べるシーンはなく、老人の靴に対するフェティシズム(これも小説に出てくるが、明らかにブニュエルも女性の足が普通以上に好きだったに違いない)と、キャプテンが生垣ごしに主人の庭にゴミを投げ込むシーンのほかは、ほとんどリアリスティックなタッチで描かれている。

音楽はつけられていない。それに対して「スザーナ」は、1940年代のワーナーブラザーズのメロドラマを思わせる感傷的な音楽で一杯だ。「スザーナ」はブニュエルが監督契約して撮った作品だったため完全な自由がなかったが、この映画はもっと彼の思い通りになった作品だ。しかしそれでもかなり抑制された「フランス的」とも呼べる作品で、もしクレジットを見なければ、彼がこの作品の監督だとは想像できない映画だと言える。