2009年4月3日金曜日

小間使いの日記 "Diary of a Chambermaid"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/diary-of-chambermaid.html


今日は「小間使いの日記」を見た。ブニュエルの第二フランス期の初期に撮られたもう一つの作品だ。

物語の主人公はパリの小間使いセレスティンで、彼女は田舎に働き口を見つける。だがその田舎に余興と呼べるものは何もなく、みんな偏狭で、使用人はトンマか乱暴者だ。年老いた主人は半分ボケた、靴のフェティシストで、女主人である彼の娘は几帳面な、やかまし屋だ。この女主人は、夫とのセックスに耐えられず、結果として、彼女の夫は森で狩りをするか、小間使いを誘惑することにあけくれている。それまでの小間使いを誘惑したように、彼はセレスティンを誘惑しようとするが、セレスティンは頓着しない。最初、女主人はセレスティンに反発を感じる(たぶんセレスティンが美しく、夫がセレスティンに夢中になることを恐れたため)が、だんだん彼女に気を許すようになる(たぶんセレスティンが夫と寝なかったためだ)。そして、いつしかセレスティンはみんなを意のままに操るようになる。

前半は上流階級を皮肉に揶揄する映画になっているが、使用人も聖人ではない。後半はちょっとした殺人ミステリーか、サスペンス映画の様相を帯びてくる。セレスティンと特に気が合っていた少女がレイプされ、森で虐殺されているのが発見されるのだ。それも、ちょうど年老いた主人がセレスティンのブーツを口に突っ込んだまま死んでいるのが発見された夜にだ。 使用人のジョセフがやったに違いないとセレスティンは考える。彼はサディストで、乱暴者で、ファシストだからだが、観客も犯人はジョセフに違いないと思う。なぜなら彼が森で少女と会い、彼女のあとを追う場面が出てくるし、少女の素足が茂みからつき出している――二匹のでかいカタツムリが彼女の足を這っている――ショットが現れるからだ(このイメージは映画の中で一番印象的で、「赤頭巾ちゃん」をもっと陰惨にした昔話のようなトーンで捉えられているこのシーン全体がかなり強烈)。

ジョセフの身辺を調べることにしたセレスティンは、彼の部屋に入り、殺人を告白させるため、彼を愛しているふりをし、彼と寝ることさえする。最終的に彼を罠にかけ、彼は殺人の疑いで逮捕される。しかし証拠というのが、セレスティンが殺人現場に置いた、彼の靴のつま先部分だけだったので、結局、罪は問われずに終わってしまう。

セレスティンは隣に住む退役した軍のキャプテンと結婚するが、元の主人の次の犠牲者となるべく拘束された少女を救う。そしてジョセフはカフェを開くためにシェルブールへ行き、ファシストが町を練り歩くの見て歓呼の声をあげる。

セレスティンの働く家の人間関係が何だか妙に思えたので、この映画の原作になった、1891年の小説の筋を調べてみた。小説でもセレスティンは靴のフェティシストを主人に持っているが、彼が死ぬと、別のカップルのために働くようになる。小説はノンリニアーな、もっとエピソードの羅列っぽい物語になっており、セレスティン・Rという女による実際の日記のように書かれている。ドレフィス事件が起こった当時のフランス社会が批判され、金に汚い人々、その中でも最悪な金持ちが描かれており、彼らの奴隷になっている貧民たちも道徳的に金持ちよりましとは言えない様子で描写されている。著者のオクターブ・ミルボーは社会に対して怒り狂っているようだが、ブニュエルと、彼と一緒に脚本を書いたジャン・カリエレはもっと軽いタッチで問題を扱っており、我々自身もやりかねない暴挙としてそれらを面白がり、同時に思索の対象として捉えているように見える。一家の主人と隣のキャプテンとの諍いのエピソードはかなり笑える。

この作品は白黒で撮られ、きっちりライトがあてられた、プロダクションとしても申し分のない作品になっている。素晴らしい俳優たちが出演し、1920年代のコスチューム、軽馬車、馬、アンティークの車なんかがたくさん登場する。ただひとつ気になるのは、ワイドスクリーンのアナモルフィックの「フランスコープ」で撮られたため、レンズの加減で映像がパーフェクトではないということだ。スクリーンの端にある物体は細く引き伸ばされ、ワイドアングルレンズで撮られた映像は、パンすると、ショットの真ん中が歪んでしまう。たとえば、小さな女の子の手の上のカタツムリが映されたクロースアップのショットにはかなりの違和感を覚えた――それが何なのかは正確にはわからないが、カメラがブームバックしてフレームが広がる時に、何かが起こってる。ショットの真ん中でレンズが入れ代わったのか、照明の変化か、微妙なズームが使われてレンズが調整しようとぶれたのだろうか? とにかく妙だった。

ジャンヌ・モローがセレスティンを演じおり、いい演技をしている。この映画が、「スザーナ」と同時に僕の家に届けられたのは面白い偶然だ。「スザーナ」も美しい小間使いの若い女の話だが、彼女も周りの男達のすべてから欲望の対象にされる。スザーナは彼らの欲望をかきたて、エスカレートさせようとするが、セレスティンは特にそうしたことはしない。自分の気に食わない相手を簡単に追い払い、みんなを手際よく扱う。この部分も小説に書かれていたのだろう。つまり、下層階級が、知的で、その能力があれば、召使いの立場でも、「主人達」を意のままにできるということが描かれていたのだと思う。映画に出てくる中でそれほど知的でない召使いといえば、セレスティンのあとを引き継いだ小間使いだ。主人は言い古された台詞を使って彼女を誘惑するが、彼女は何と言っていいかわからない。どう拒否していいのかわからないし、その家を去り、職を失うことも考えられない。泣きそうになりながら、数分後には納屋へ行くように命令されるが、そこでは主人にレイプされる運命が彼女を待っている。

ほとんどシュールレアリズムと呼べるシーンはなく、老人の靴に対するフェティシズム(これも小説に出てくるが、明らかにブニュエルも女性の足が普通以上に好きだったに違いない)と、キャプテンが生垣ごしに主人の庭にゴミを投げ込むシーンのほかは、ほとんどリアリスティックなタッチで描かれている。

音楽はつけられていない。それに対して「スザーナ」は、1940年代のワーナーブラザーズのメロドラマを思わせる感傷的な音楽で一杯だ。「スザーナ」はブニュエルが監督契約して撮った作品だったため完全な自由がなかったが、この映画はもっと彼の思い通りになった作品だ。しかしそれでもかなり抑制された「フランス的」とも呼べる作品で、もしクレジットを見なければ、彼がこの作品の監督だとは想像できない映画だと言える。

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