2009年4月5日日曜日

トレインスポッティング "Trainspotting"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/trainspotting.html


夕べは「トレインスポッティング」を見た。不思議なことだが、今までなぜか見る機会がなかった。スティーブが話していた「トイレ」のシーンのせいで、見る気をなくしていたのかもしれない。でも悪い映画じゃなかった。

これは、物語よりスタイルにこだわった種類の映画だ。脚本家、監督、セット・デザイナー、編集者が一緒になってそれに取り組み、派手で楽しい、不思議なカット、奇妙で主観的なセットとショット、特殊なレンズでとらえらあれた、あからさまではないが歪んだ映像、けばけばしい色などをこの映画に盛り込んだ。俳優陣も過激なキャラクター達を漫画チックな演技で描いている。

一言で言えば、この映画は僕が体験したことのない世界を垣間見せてくれたと言える。知らない世界へ連れて行ってくれるというのは、映画というメディアの魅力のひとつだ。原作は一種のアンダーグラウンド・カルト・クラッシックと言えるが、物語と言うよりは、一連の出来事や生活の断片を綴ったものだ。脚本はそれに基づいて、何とかストーリーを紡ぎ出そうとしている。でも、やはりこれはストーリというより、さびれたスコットランドの町に住む、貧乏で、不満を抱いているヘロイン・ジャンキーたちの生活のポートレイトだ。確かに脚本は、古典的なある種の「救済」を提供しようとしているが、その語り口のひねりによって救済と呼ぶには皮肉すぎるニュアンスが加えられている。

このことは「生きることを選べ!そして結婚、仕事、子供、洗濯機、車、CDプレーヤー……を選べ」という台詞を映画の冒頭に持ってきて、ジャンキーたちが盗みに入った店から逃げるシーンにかぶせていることにも当てはまる。ジャンキーたちはヘロインを買う金を得るために、店から盗んだ商品を売るのだが、ここでこの台詞はとても皮肉に聞こえる。映画は最後に、友人たちから2キロのヘロイン売買から得た利益を騙し取った主人公が陽気に歩き去るのを映し出す。そして、そこで同じ台詞が流されるのだが、ここでは主人公がこのライフスタイル(盗んだドラッグ・ディールの金に頼って生きること)を受け入れる準備があるように見え、その台詞はさらに皮肉に聞こえる。そして映画が終わったあと、我々は、このレントンという男が本当にヘロインをやめる気があるのか疑問に思ってしまう。彼が最後にヘロインを打つシーンで、彼のボイスオーバーは「最後のひと打ち、そしてまた最後のひと打ち……そう思いながら、どれが本当に最後のひと打ちになるのだろう?」と言うのだ。

映画の途中で赤ん坊が出てくる。ジャンキーたちのたまり場で、注射針や彼らの残したゴミやくずの中で楽しそうに這い回っているのが出てくるのだが、その赤ん坊は彼らの不注意から死んでしまう。ジャンキー仲間の一人はそのために刑務所に送られる。また、一人はオーバードースから、ヘロインを断ち切ることを余儀なくされ、古典的な(40年代、ビリー・ワイルダーが「失われた週末」で描いて以来)そのリアクションがモンタージュで語られる。ただ一人健康で、ドラッグに手を出したことのなかった男はガールフレンドを失い(彼と彼のガールフレンドが個人的な楽しみのために作ったセックス・テープを主人公が盗んだため)、ヘロインを打ち、エイズに感染する。そしてガールフレンドを取り戻すために手に入れた子猫が彼のもとに戻ってきたとき、彼はトキソプラズマ症で死ぬ。過激なドラッグ反対者の男(「フルモンティ」のロバート・カーライルが、黒髪の髭をはやした精神病質者として演技)は中毒者たちを次々と病院へ送り込み、主人公は「スコットランドで一番最悪なトイレ」へ逃げ込む。それがあの有名なシーンだ。それでもこの作品はジャンキーの視点から見た世界を我々に垣間見せ、彼らの体験する快感、クレージーでワイルドな楽しみのある側面を我々に伝えようとしている。信じられないことだがこれはコメディだ。とても新鮮な作品だが、検閲した人々がそれを肯定的に受けとめたとは思えない。

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