2009年4月6日月曜日

誰も知らない "Nobody Knows"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/nobody-knows-dare-mo-shiranai.html


今夜は是枝裕和が2004年に監督した「Nobody Knows」を見た。imdbのデーターベースのオリジナルのタイトルは「誰も知らない」だ。

パワフルだが長い作品。長すぎるとも思ったが、長いからこそ、映画を見ながら、物語について考える時間が与えられているとも言えるし、子供が体験している状況に終わりがないように感じさせる効果もある。

ちょっとガッツの足りない母親は、四人の子供をアパートに置いて、ボーイフレンドとどこかへ行ってしまう。一番年長のアキラはまだ12歳だが、他の三人の面倒をみなければならなくなる。母親は彼女とアキラしかこのアパートに住んでいないと大家に言っていたので、子供たちは学校にも行けないし、アパートから出ることもできない。だが母親が去って何ヶ月もたち、子供たちは外に出ざるをえなくなる。ガス、電気、水が止められてしまったからだ。

そしてある日、一番幼いユキが事故で死んでしまう。アキラと、近所に住む少女サキは、死体を羽田に運び、そこに埋める。生き残った子供たちの生活は続く。物語の終わりとしては、彼らの存在を警察が知り、母親の罪が問われ、子供たちは里親や、孤児のためのグループホームに引き取られ――とにかくそういう子供たちが日本で一般的に送られる所へ送られ――学校へ行き、将来への展望が開けるというものが予想されるかもしれない。だがそういう結論をこの映画は提供しない。スカッとした満足感を得られない反面、終わりとしてはよりパワフルだ。

監督はドキュメンタリースタイルで撮影しており、子供たちは好演している。子供たちが実質的に、出てくる役者のすべてだ。カメラはほとんどいつも静止している。そして場面の移行は、ほとんどすべて、ストレートカットで処理されている。唯一、表現主義的と呼べるシーンはユキがからむシーンだ。まず、誕生日にユキがアキラに頼んで、母親に会うために駅に連れて行ってもらうシーン。もちろん母親は現れないが、アキラとユキはモノレールの下でしばらく佇み、アキラはユキに、いつか飛行機を見せてやると約束する。そして映画の終盤近くでアキラが、まだ生きているユキと道を歩いている情景を夢想、あるいはそういう思い出にひたるシーン(是枝は当初、家族全員――父母と子供四人――が一種の天国、少なくとも幸せな家庭におさまっている夢想を描き、映画を終えようとしていたらしい)もその例だ。

映画ではクロースアップ、カットアウェイ、オフハンドのコンポジションが多用され、ドキュメンタリースタイルのショットやカットが多く見られる。これは、子供たちの演技に対するプレッシャーをやわらげると同時に、多くのことを語り、物語を形作るのに役立っている。大げさな感情表現をできるだけさけ、すべてが控えめなトーンで、淡々とした日常であるように描かれている。そのことが、ある意味でこの映画をとてもリアルで、忘れがたく、説得力のあるものにしている。

君はこの映画の題材になっている事件を憶えているかな?僕もニュースで読んだような気がするが、二、三年前の事件だったと記憶している。imdb.comにのせられたコメントによると、是枝はこの脚本を15年間あたためてきたとされている。だが、もしそうだとすれば、その事件は1980年代の終わりに起こったということになる。あるいは日本には似たような事件が何件もあったのだろうか?

この種の映画を、もっと広範な社会情勢を絡めることなく議論するのは難しい。なぜ母親はこんなことができたのか?なぜ子供たちは見つかることなく生きられたのか?我々の社会は一体どうなっているのか?でも、ここで僕は映画についてだけ語っていると断っておこう。

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