2009年4月16日木曜日

隠し砦の三悪人 "The Three Bandits of The Hidden Fortress"

英語原文:http://asotir-movieletters.blogspot.com/2009/04/three-bandits-of-hidden-fortress.html

今夜は黒澤の「隠し砦の三悪人」を見た。

もちろん君はこの映画をよく知っているはずだ。僕もこの映画を3、4回見ている。いつ見ても思うのだが、映画の本筋が始まるまでは、二人の道化役が主人公として描かれており、物語のテンポがのろい。そしてこの道化役が演じている、本筋にたどり着くまでの部分は、映画を見る回数を重ねるたびに、だんだん長く感じられるように思う。

道化役の演技を楽しむためには、彼らのジョークを面白いと感じる必要があるだろう。奇妙なことに、勇ましい侍大将と、勇敢で、気の強い姫君と対比され始めると、この道化役たちが面白く見えてくるが、二人だけのときは、この道化役たちには全く面白味がない。日本語がわからないせいで、見逃したり、聞き逃している部分があるのだろうか? もしかしたら彼らのアクセントや、彼らの使う言葉は、要点しか伝えられない字幕よりユーモラスなのかもしれない。

とにかく、姫君が登場するまで45分かかる。そして侍大将、姫君、道化役たちが一緒に旅に出るまで1時間かかる。この時点で第一幕が終わると言えるのだろうが、第一幕に1時間だ!僕には長すぎる!

物語:秋月家と山名家の間で戦いが起こる。早川家はそれに巻き込まれずにすんでいるが、負けつつある秋月側の生き残りの者たちを保護することに同意する――もし彼らが領境を越えて秋月領に来ることができればの話だ。

だが、物語は二人の道化役の男たちから始まる。この二人は一攫千金を夢見て、武具を手に入れるためにすべてを売り払い、戦争に参加する小作人たちだ。だが、計画通りにことは運ばず、戦場におくれて現れた二人は、死体から衣服や武具を剥ぐ作業をするはめになる。そのあと、ぼろをまとった二人は、故郷の早川領へとぼとぼ帰り始めるのだが、その道中、自分達の不運をお互いのせいにしてずっとののしり合う。

山名と早川の領境に来る二人だが、その領境は閉ざされ、秋月側の人間が逃げないように、山名の兵士たちが見張っている。二人は山名軍に連行され、やはり連行された他の人々に混ざって、秋月城の土台を掘り起こす作業に就かされる。秋月家の富の基盤であると噂されている2百枚の金片を探すためだ。

しかし強制的に労働させられていた人々の反乱が起こり、その混乱に乗じて二人は逃げ出し、荒れた後背地をさまよう。腹をすかせ、盗めるものは何でも盗み、倒れる寸前の二人。だがそこで彼らは、金片が隠された薪の木切れを何本か見つける。

金片をもっと探そうとする二人だが、猛々しい山賊(三船敏郎)に出くわし、山賊は残りの金片がどこにあるか知っていると言う。そして二人は秋月家の隠し砦で、山賊と一緒に旅をしている野性的で、癇癪持ちの女に会う。その砦は、かつては山名領を見張るために使われていたが、今は見捨てられてしまっている。

実はこの山賊こそ、秋月の侍大将、六郎太で、女はプライドの高い、秋月の姫君の雪だ――彼らはこの先どうしようかと思案しながら砦に隠れていたのだ。道化役の二人を殺そうと考える六郎太だが、二人にどうするつもりかと聞いたところ、早川領へたどり着くためにはまず山名領へ行くしかないと、無謀なプランを口走る。だが六郎太はなぜかこのプランを気にいり、二人を殺さず、そのプランに従うことにする。

そして(映画が始まって一時間後だ!)一行は旅に出る。一行とは、侍大将、姫君、二人の道化役、そして秋月の金片を隠した薪をたっぷり積んだ三頭の馬だ。彼らは山名領に入るが、彼らの動向に関するニュースを聞きつけた奴らがいつもあとを追ってくる。道中、彼らは馬を売り、奴隷にされていた秋月の捕虜と荷馬車を買い、山名軍の大将たちと戦う。火祭りで薪を全部燃やしてしまうが、朝になって灰の中から金を掘り起こし、早川との領境にある山へ命からがら逃げ込む。だがそれもすべて無駄に終わる。二人の道化役は姫君を裏切ることに決めるのだが、彼らはそれさえも上手くできない――姫君と六郎太は彼らが裏切る前に捕らわれてしまうのだ。すべてに完全に敗北しながらも、命だけは助かった二人は、自分の家に帰るために早川領へとぼとぼ入ってゆく。

一方、捕らわれた六郎太と姫君のところに、かつて六郎太が決闘して負かした侍大将がやってきて、二人が誰かをすぐさま見破る。かつては誠実な友情で結ばれた二人だったが、決闘でひどく打ち負かされ、傷跡が残った侍大将は、今では六郎太に対して苦々しい感情を持っている。六郎太は姫君に謝るが、姫君は生涯で一番楽しい時間を過ごさせてくれたことに感謝すると六郎太に言い、火祭りで歌われていた、人生に対する執着を捨てた境地についての歌を歌う。

朝になり、領境から山名城へと一行は出立する。しかし、もうこれまでかと思われたとき、山名の侍大将は雪の歌った歌を思い出し、自身の部下と戦い、六郎太と姫君を自由にして早川領へ送ってやる。また金を積んだ馬たちも送ってやる。そして自分も馬にとびのり、彼らを追ってゆく。

その行く手のずっと先には、あの二人の道化役がとぼとぼ歩いている。二人は再び友情を誓い合っているが、それも金を積んだ馬がやってくるまでだ。どちらがどれだけとるかで喧嘩を始め、早川軍が来て二人を逮捕するまでそれは続く。

最後のシーンで、二人の道化役は雪と六郎太に再会するが、雪は優雅な着物をまとい、六郎太は甲冑を身につけた姿に変わっている。六郎太は二人の道化役に金二片を二人の働きに対して与え、道化役たちは早川城を去る。二人はついに何か学んだらしく(少なくともそう見える)、もうもらった金貨について口げんかはしない。

制作者としては扱うのが難しい作品だ。黒澤が語っているのは二人の道化役の物語りように見えるが、勇ましい侍大将と勇敢な姫君のキャラクターが面白すぎる。そしてこの二人が現れるやいなや、物語の中心が彼らに移ってしまう。また、これはどちらかというと子供のための寓話のようにも見える。子供が見下し、笑うような対象として二人の道化役が提供されている。だが、この二人の道化役の果たしている役割にはもっと奥深い意味があると思う。

オープニングシーンは、実際に参戦する多くの人々にとって戦争がどんなものかを語っている。彼らにとって戦争とは汚く、破壊的で、不名誉なものだ。しかし侍大将と姫君が物語を乗っ取った後は、エリートにとっての戦いとはどのようなものかを垣間見ることができる。彼らにとっての戦いは、栄光と冒険に満ち、名誉なことなのだ。つまり戦争は、エリート侍の個人的なレベルにおいては、栄光に満ちたものであることが可能だ。だがそれが領主や領国を巻き込むレベルになると、百姓達が引きずり込まれるのは不可避で、そうなると戦争はもはやそれほど素晴らしいものではない。小作人が戦いから何かを得られると考えるのは全く愚かだということだ。

オープニングは、吉川の武蔵をちょっと思い出させた。武蔵の映画も、参戦するためにやってきた小作人のヒーローが死体の山の中で目覚め、自分の軍が敗北したことを知るシーンで始まる。彼もまた故郷の村の親友と一緒に戦いに来たのだが、二人はその死体に覆われた戦場から全く別の道を歩き始める。溝口の雨月物語も、一攫千金をねらって戦場にやってくる二人の小作人の話だが、隠し砦より5年前に公開されている。

だが映画の終盤で、侍大将が敵を打ち負かし、ヒーローらしく危機を脱するのを見た人々は戦争の愚かさについて考えるだろうか? 冒頭の泥にまみれた醜さは道化役の男たち自身の愚行のせいだと思い、戦争自体にその醜さの由来を問うことを忘れてしまわないだろうか? 頭では僕も戦争は悪だと言える。だが馬がギャロップする映像を見ながら、六郎太のテーマー曲である勇ましい音楽を聞くと胸が躍ってしまうのは事実だ。

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